あの、悪夢の様な戦争の中、私は一人の男に会った。
 彼の名はシュピルマン。
 死人の目ばかりの中で、たった一人生きた瞳をしていた彼は、ピアニストだった___________________




          Nocturne, Lento con gran espressione




 その廃墟となった建物に、私は軍の命令からも、そしてそれを私が部下に下した結果からも、全てからほんの一時でも逃れたくて、部下を車のところで待たせ、一人そこへ入っていったのだった。
 何をするということもなく、ただぼんやりと、それでも戦場に長く身を置くことになった者の常として、僅かも物音を立てない身のこなしで、幾つもの部屋を過ぎいく内、彼に・・・出会ったのだった。
 その時の彼は酷い身なりで、私に気づくこともなく、手に持った何かと格闘していた。
 その様子に恐らくユダヤ人なのだろうということは分かったが、おかしなことに私は彼をただじっと、見つめていた。
 しばらくするうち彼の方もとうとう私に気づいて、呆然として・・・酷く怯えていた。
 私はそんなことなど全く頓着せずに彼に話しかけた。
 あの時の私は自分にドイツ人将校としてではなく、私自身として、そこに立つことを許していたからだ。
 彼はピアニストだと名乗った。
 だから私はそれに相応しく、彼に演奏の場を与えた。
 正直彼の腕前には期待していなかった。
 本当はただ、戦場にいるということを忘れさせてくれる、軍人としての自分以外の自分として、何かしてみたかったのだ。
 真夜中に廃墟でピアニストと二人、彼の演奏を聞く。
 まさしくファンタジーだ。
 現実を忘れるのに相応しいシチュエーションだ。
 そんな微かな感傷と、昔の名残がさせた気まぐれだった。
 ピアノを目にした彼は震えていた。
 子供が酷く壊れやすい、綺麗なものに恐る恐る触れるように、そっと、鍵盤に指を伸ばした。
 一瞬の、躊躇うような静寂が、彼を包んだ時、私は彼は本物なのだと気づいた。
 彼の指が、最初の鍵盤を叩くと・・・私の気まぐれは奇跡に変わった。
 美しく、清廉で高貴な若い貴婦人のようなピアノは、彼の情熱的な口説き文句を受け入れたかのように、自身の上をその指が滑るのを、許していた。
 私はその密やかな交歓を、じっと、見つめていた。
 まるでそれ自身意思を持っているかのように動く、その指先だけを。
 古今を問わず、小説家や批評家は、素晴らしい音楽の、その素晴らしさを伝えようと、旋律を言葉で表そうと、数々の努力をなしてきた。
 けれどそれだけはどんなに煌びやかな形容詞を並べ立てて絢爛な比喩を用いても、彼らには成しえなかった仕事だった。
 この時の圧倒的な旋律を・・・私はどんな言葉にも表せないし、何に例えることも出来ない。
 けれど彼がまさしく、神の祝福を受けて生まれてきた人間だということが私には確信出来たということだけ・・・それだけは真実だった。
 そうして演奏を終えた彼は・・・鍵盤から指を離した瞬間、また元の、薄汚れた男に戻っていた。
 なのに今でもはっきり覚えているのだが、その時見つめた彼の瞳は、確かに彼の魂が汚されぬまま、生きているということを・・・物語っていた。
 誰もが・・・虐げる側も、虐げられる側も、毎日延々と続く絶望におかしくなっていた中で、初めて・・・柔らかな魂に出会えた。
 本当の奇跡は、彼の語られえぬ言葉のように流れ出したその音楽ではなく、彼の存在そのものだったのだ。
 どうして彼にだけそんなことが可能だったのかは、分からない。
 らしくもないことを言ってみるなら、彼はきっとミューズに守られていたのだろう。
 だがその福音は、私にまでは届かなかったようだ。
 あるいは間に合わなかったというべきか。
 もうすぐ、私の人生は終わりを告げるだろう。
 あの時彼を見逃して、それからも助けたのは、別にこうなることを予想して見返りを求めていたわけではない。
 そんな下心や計算が一欠けらも働いていなかったと言えば嘘になるのだろうが・・・ただ、あの時の私は、確かに彼の音楽に、その存在に救われたのだと思う。
 今でも自分では受け入れられないこの運命が私の命を奪う時、それでも罪を犯した私がもしも天に昇れるとしたら、それには彼のあの時の音楽だけがか細い道標として、私を導いてくれるはずだと信じている。
 あの時のあの調べが、もうすぐ、再び私の元へとやってくるのだ__________________________________________

 _______________________________________________後にはただ、音楽だけが残った。

 ___________________________________________________________________ あの、調べだけが。












                    End.








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